第2章:華僑・華人の歴史

華僑の歴史はいつから?

華僑の歴史は、古代中国まで遡ると言われています。中国の歴史の長さを考えると納得がいきますね。
この章では、古代から現在に繋がる華僑の歴史をお伝えします。

華僑の歴史=中国人の海外移住の歴史と考えると、その時代は3つの期間に分類することができます。

第1期は、対外貿易が発展した8~9世紀の唐の時代
第2期は、16世紀の明朝末~清朝初期の時代
第3期は、清朝末期~19世紀以降の時代

これらに続く第4期があるとすれば、テクノロジー、ネットワーク、そして経済が発達した現在かもしれません。

華僑の影響力は世界規模になっています。

それでは、各時代についてひとつひとつ紐解いて行きましょう。


【この記事では・・・】
この章では華僑の辿って来た歴史についてまとめます。
華僑の歴史の奥深さについて、読者の皆さんにご理解いただければと思います。


【第1期】8~9世紀の唐の時代

華僑という言葉はいつから使われ始めたのでしょうか。

実は、そこまで古い言葉ではありません。

「華僑」という言葉以前に多く使われてきた表現としては、「唐人」があります。

唐(618~907年)は海陸に渡ってその名を世界にとどろかし、海外にいる中国人は唐人と呼ばれました。それがまさに第1期の時代です。

その時代には華僑ではなく「唐人」として、中国の人々が他国へ進出して行きました。
世界各地に見られるチャイナタウンは、中国語で「唐人街」と呼ばれるそうです。
世界に唐人の名残が残っているのは、その歴史から来ているのですね。

私の好きな福岡市にも「唐人町」という地名のエリアがあります。
海を超え活躍していた中国人たちの名残を感じます。

【第2期】16世紀の明代末~清初期の時代

16世紀といえば、世界的な出来事でいうと大航海時代です。
ヨーロッパの大航海時代の訪れとともに、世界中における交易が活発となった時期です。

当時の中国は、明の時代です。
当初、明朝では日本との勘合貿易に代表されるように、外国との貿易においては朝貢貿易(貢物)に限定していました。沿岸住民の私貿易、および海外への出国を原則禁止する海禁政策、日本で言う鎖国のような政策を取っていたのです。
これに不満を持った華南地方の沿海住民は密貿易を盛んに行い、後期倭寇の中心として明朝に対抗しました。(後期倭寇は日本人より外国人が多かったようです。)

倭寇に手を焼いた明朝は16世紀後半に倭寇の根拠地である日本方面への海禁を継続し、一方で東南アジア方面への海禁は解除したため、交易のために東南アジア方面へ向かう中国商人が増えました。
東南アジアは17世紀前半まで朱印船に乗り銀を持って来航する日本商人と、日本銀と中国産の生糸を交換する中国商人との出会いの場として繁栄しました。

その一方で、明朝の腐敗、重税および人口増加を背景として、華南地方の沿海住民が東南アジア方面に流出、移民していく流れができました。

【第3期】清朝末期~19世紀以降の時代

いよいよ第3期です。

我々がイメージする現在の華僑に近づいていきます。

1819年、イギリスの東インド会社の植民地行政官であったラッフルズにより、シンガポールの開発が始まりました。それに伴い、労働力として中国人が東南アジア地域にさらに流入するようになりました。

※現在のシンガポールのビル群。

そして1842年、アヘン戦争の敗北により中国が開国したたため、中国人の大量流出が加速します。


アヘン戦争後の銀の高騰と重税に苦しむ農民たちが、海外資本や海外資本と結託した中国商人の手によって各地に輸出されていくのです。
イギリスは東南アジア地域の鉱山労働者として中国人労働者を導入しましたが(既存の華僑商人のネットワークを利用した)、新大陸(アメリカ)に向けても、黒人の奴隷労働に代わる安価な労働力として苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者を売り出したのです。

北米におけるゴールドラッシュに湧く太平洋岸の鉱山労働に、そして大陸横断鉄道の建設などにも苦力たちは従事させられ、中南米においてはサトウキビのプランテーションなどに、インド人労働者らとともに使われていました。
華僑の多くは とても貧しい環境にあったのです。


しかし団結心の強い彼らは、同族・同郷の出身者で結合して「幇」と呼ばれる団体を結成し、助け合います。
そしてこの結合関係のネットワークを利用し、相互扶助によって社会的地位を上昇させていくのです。
ただ、そのネットワークは中国人排斥運動をしばしば呼び起こす原因にもなりました。

この時、異国にて排斥運動に直面した彼らは、彼らを保護してくれない清朝政府の無力さに絶望し、国家の変化と強大化を求め、中国革命に多くの支援を行うようになります。

孫文が華僑を「革命の母」と呼んだ事実があります。

日中戦争においても華僑は国民党政府に多大な支援を行い、華僑の青年の中には自ら志願して日本軍との戦いの前線に赴く者が多くいました。
しかし、太平洋戦争下で東南アジアが日本軍に占領された時は、日本軍の弾圧により数万人の華僑が虐殺されたと言われています。

華僑の歴史は、政治的には苦難の連続です。

第二次世界大戦後には、東南アジアの現地政権は経済の実権を握る華僑を警戒し、マレーシアのマハティール政権により”マレー人優遇政策”のような現地人優遇政策をとるようになります。
また弾圧事件もしばしば発生しました。

インドネシアでは共産党が軍部によって壊滅に追い込まれ、倒されたスカルノに代わってスハルトが権力を握る契機となった1965年の「九・三〇事件」から、国として中国共産党を支持し、インドネシア共産党に加盟していた華僑党員とそのシンパ数十万人が虐殺されたと言われています。

また中華人民共和国の文化大革命が激化した時期には、帰国華僑と国内華僑親族はブルジョワ・知識人・スパイとして迫害を受け、海外華僑との関係が希薄化していきます。
しかしその時期が過ぎ、改革開放政策がとられるようになると、中華人民共和国は華僑との関係改善に乗り出し、香港やシンガポールの華僑による対中投資が活発化しました。
激しい反中華人民共和国政策を取り、大陸との交流を一切禁止していた台湾では、1987年に政策の大転換を行い大陸との交流を認めました。

その結果、台湾の人・モノ・カネが中華人民共和国に流れるようになりました。
これらの経緯により、香港、台、広州地域を中心とする華南地方沿岸部の発展は著しく、この地域を中心とした大経済圏が成立しました。

21世紀は中国・中国系人を中心とした世紀になるかもしれません。

【チョット・ブレイク】
華僑の言葉の意味をご存知ですか?

 ”華”は華人(中国人のこと)、”僑”は「仮住まいする人」という意味です。

それが「旅する人、外地に居留する人」の意味へ変化し、

さらに「旅する中国人、仮住まいする中国人」=「華僑」に。

このように、19世紀末は言葉の意味も変化した時代でした。

第二章まとめ

近代における華僑に関連する重要な出来事の一部を記載して、この章のまとめとします。

・明朝後期~清朝初期 
 解禁政策の撤廃により、華僑の歴史が始まる。
・1850年代-1860年代
 ゴールドラッシュの影響で大勢の中国人が北米やオーストラリアへ移民。労働力としての需要が高まる。
・1882年
 米国で中国人排斥法が成立。中国人の新規移民が禁止される。
・1911年
 辛亥革命が起こる。この革命は華僑の一部から資金援助を受けており、中国の民主化につながる。
・1930年代-1940年代
 第二次世界大戦での日本の侵略に対抗するため、海外の華僑コミュニティが中国への支援を強化。
・1949年
 中華人民共和国の成立に伴い、多くの中国人が香港、台湾、および他の海外地域に移住。
・1965年
 米国で移民法改正。中国からの移民数が増加。
・1970年代-1980年代
 台湾と香港の経済発展が進み、世界中へ向けて新たな中国人移民が増加。
・1989年
 天安門広場の事件が発生。華僑社会の中で中国政府への批判が強まる。
・1997年、1999年
 香港とマカオが中国に返還される。華僑にとってのアイデンティティや忠誠心に影響を与える。
・2000年代-現在
 中国の急速な経済成長に伴い、専門職や学者を含む新たな華僑が世界中に広がる。
 同時に華僑の投資力と影響力が中国の経済発展を支える一助となる。

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